中学三年の秋、進路相談があった。
彼はその頃、勉強をしていなかった。
授業中は窓の外を見ていることが多かった。成績は中の下。テストの点数を聞いても「まあまあ」としか言わなかった。休みのたびに一人旅に出て、帰ってくると旅の話ばかりした。担任の先生から見れば、扱いにくい生徒だったに違いない。
志望校を書く紙に、彼は都内の有名な私立高校の名前を書いた。
進路相談の日、職員室で担任はその紙を見て、笑ったのだという。
「お前では無理だ。絶対に無理だ。やれるもんなら、やってみろ」
誰かが廊下にいて、聞いていた。話はその日のうちにクラスへ広がった。俺が彼の口から直接聞いたのは、数日後の帰り道だった。
商店街を並んで歩いていた。彼は映画館の前で立ち止まって、看板も見ないで言った。
「職員室で笑われた」
「誰に」
「担任」
彼はそれ以上、詳しく言わなかった。悔しいとも言わなかった。ただ、ポケットに手を入れて、まっすぐ前を見て歩いた。
その日から、彼は変わった。
まず、旅の計画を全部やめた。ノートに書きかけていた次の旅程表を、破って捨てたのを俺は見た。それから、彼は勉強を始めた。最初は放課後の教室で。次に、図書室で。やがて彼の机の上には、参考書と問題集が山になった。
やり方が、彼らしかった。
彼はまず、試験までの日数を数えた。それから、教科ごとに、必要な点数を逆算した。父親の食卓でやってきたことと同じだった。目標の数字を置いて、そこから今日やることを割り出す。彼は受験勉強を、商売の計算みたいに組み立てていった。
クラス中が驚いた。
三か月で、彼の成績は跳ね上がった。模試の結果が張り出されるたびに、彼の名前が上に移動した。先生たちは目を丸くした。本人は何も言わなかった。「笑われた」という一言以外、その話を彼はしなかった。
夜、彼の家に行ったことがある。
母親に呼ばれて、夕飯の差し入れを届けたのだ。彼の部屋の明かりが、路地から見えた。二階の窓だった。ノックをすると、少し間があってドアが開いた。彼は眼鏡をかけていた。普段はかけない眼鏡だった。
机の上は、問題集だらけだった。蛍光ペンで線の引かれたページ。タイマーが置いてあって、彼は時間を計って問題を解いていた。ベッドの上には、広げたままの参考書。壁には、試験までの日数を書いた紙が貼ってあった。数字が、一日ずつ消されていた。
「何しに来た」
「おばさんが、これ」
彼はタッパーを受け取って、「ありがと」と言った。それだけ言って、また机に向かった。背中が、もう話しかけるなと言っていた。
帰り道、俺は彼の家の明かりを振り返った。
あの明かりの中で、彼は戦っていた。戦う相手は、試験じゃない。職員室で笑った担任と、その言葉を聞いていたクラス全員の記憶と、「お前では無理だ」という声そのものだった。
次の日、学校で俺は彼に聞いた。
「なんでそこまでやるんだよ。別の学校だってあるだろ」
彼は参考書から目を上げずに言った。
「負けたまま終わると、一生残るんだよ」
「誰に負けたんだよ」
「自分にだよ」
それ以上、彼は何も言わなかった。
俺は、彼の隣の席で、その変化を見ていた。
正直に言うと、怖かった。
悔しさだけで、あそこまで人は変われるのか。いや、悔しさじゃないのかもしれない。彼は「できる」と言われたい人間だった。祖母に「特別な子だ」と言われ続け、父親に「よし」の一言をもらうために計算を続けてきた人間だった。その彼が、学校の先生に「お前では無理だ」と笑われた。
あの笑いは、彼の全部を否定したのと同じだった。
だから彼は、否定した相手が間違っていたと証明するためだけに、走ったのだと思う。
冬が過ぎ、受験の日が来た。
合格発表の日、俺は彼の家の前で待っていた。彼は一人で見に行って、夕方、帰ってきた。商店街の方から歩いてくるのが見えた。表情は読めなかった。
「どうだった」
彼はしばらく黙っていて、それから言った。
「受かった。一番で」
首席合格だった。
俺は「すごいな」と言った。彼は「うん」と言った。それだけだった。二人とも、それ以上何も言わなかった。彼は疲れていた。あの数か月の全部が、あの「うん」に詰まっていた。
入学式では、彼は新入生の総代になった。
何百人もの新入生の前で、名前を呼ばれて、前に立った。その話を聞いた時、俺は職員室の担任の顔を思い出した。あの先生は今、どう思っているのだろう。彼は先生に何も言いに行かなかった。言いに行く必要がなかった。結果が、全部言っていた。
卒業の日、彼は担任に挨拶に行ったそうだ。
「おかげさまで、受かりました」
先生はしばらく黙って、「よくやった」と言ったという。彼はそれを、笑い話のように俺に話した。恨んではいなかった。少なくとも、表向きは。彼のすごい所は、そこだった。燃料にした怒りを、使い終わると捨てることができる。捨てたふりが、最後まで上手い人間だった。
その「捨てたふり」の上手さが、後にどれだけのものを彼の内側に溜め込んでいったか、俺が気づくのは、ずっと後のことになる。
彼の母親は泣いて喜んだと聞いた。父親は「うん」とだけ言ったそうだ。食卓で計算に「よし」と言う時と同じだった、と彼は笑って言った。
「親父の『うん』は、重いんだよ」
俺は頷いた。
その春、彼は制服を着て、新しい学校へ通い始めた。俺は別の高校へ進んだ。家は相変わらず近かったが、会う回数は減った。それでも彼は時々、路地に顔を出して、学校の話をした。最初は楽しそうだった。
「すごいやつらがいる」と彼は言った。「全国から集まってる」
目が光っていた。新しい計算の相手が見つかった、という顔だった。
五月の連休、彼は久しぶりに路地に顔を出した。制服ではなく、私服だった。少し痩せたように見えた。
「学校、どうだ」
「まあな」
それ以上は言わなかった。俺が聞いても、彼は授業の話をしなかった。代わりに、長野の祖母の話をした。祖母の体が弱ってきていること。連休は長野へ行っていたこと。
「ばあちゃん、だいぶ小さくなった」
彼はそう言って、商店街の映画館の看板を見上げた。彼の父親の映画館だった。その目は、計算をする目じゃなかった。
俺はその時、何も聞かなかった。聞けばよかったのか、今でも分からない。男同士の、子供の頃からの付き合いというのは、そういうものだった。踏み込まない優しさと、踏み込まない怠惰は、紙一重だった。
その頃から、彼の話の中に「学校」が消えていった。
会えば旅の話、祖母の話、父親の店の話。でも、自分の学校の話だけは、出てこなくなった。俺は気づいていた。気づいていて、触れなかった。
夏休み、彼はまた長野へ行った。帰ってきた時、彼は俺に言った。
「今年はばあちゃんの所から、足を伸ばしてきた」
一人旅の再開だった。高校生になって、彼は前より堂々と旅をした。親も、もう止めなかった。止められないと悟ったのだろう。父親だけは「一人旅の費用は、自分で稼げ」と言ったそうだ。彼は父親の店でバイトをして、その金で旅をした。
「学校の連中は、誰もやらない」
彼は少し誇らしそうに言った。
「予備校だ、夏期講習だってさ。俺には関係ない」
俺は「そうか」と言った。その時、胸の奥で小さな音がした気がする。受験の冬、あれほど走っていた彼が、今は「関係ない」と言っている。その変わり身の速さに、俺はついていけなかった。
でも、彼の言葉の裏側も見えていた。
彼の学校の「すごいやつら」は、夏も走り続けているのだろう。走り続ける彼らを横目に、彼は旅に出た。走りたくないから旅に出たのか、旅に出たいから走るのをやめたのか。本人にも分からなかったはずだ。
俺はただ、彼の「関係ない」という言葉の調子が、少しだけ強すぎることに気づいていた。
だから、その後のことを、俺はすぐには信じられなかった。
総代になった彼が、勉強をしなくなるなんて。成績が、六百人の中で五百番台まで落ちていくなんて。あれほど走った人間が、走るのをやめるなんて。
でも、今なら少し分かる。
彼は「証明」するために走ったのだ。証明が終われば、走る理由が無くなった。祖母の言葉も、父親の計算も、担任への反発も、全部が「お前は特別だ」と「お前には無理だ」の間で彼を揺らし続けていた。その揺れの中で、彼はまだ、自分の足で立つ場所を見つけていなかったのだと思う。
この先のことを話す前に、俺はもう一度、機内の窓の外を見た気がする。
いや、今の俺は、まだ飛行機の中にいる。
窓の外は夜で、雲が白く光っている。隣の席は空いたままだ。伏せたスマホは、膝の上で静かにしている。
あの時、職員室で笑われた彼は、十五歳だった。
今、ニュースの見出しの中で、彼は六十を過ぎている。その間にあったことを、俺はほとんど全部、隣で見てきた。見てきたはずなのに、今になって思う。俺は彼の何を見て、何を見ていなかったのか。
飛行機は、まだ飛んでいる。
着くまでに、時間はある。
だから、続けよう。彼の話を。俺が隣で見てきた、彼の話を。
次は、彼が学校を辞めた日のことからだ。