プロローグ

目覚ましより先に、枕元のスマホが震えた。

通知だった。

取引アプリの通知は、いつもは朝のこの時間に来ない。彼は自動売買を回している。夜の間も、世界のどこかの市場が開いている時間は、小さく売って、小さく買って、少しずつ増やす。そういう設定にしてある。増えた分が通知されることはあっても、こんな時間に、立て続けに震えることはなかった。

画面を開く前に、震えが三度目になった。

彼は布団の中でスマホを手に取った。寝ぼけた指でロックを外す。取引履歴の画面が開いた。

売り。買い。売り。買い。

自分が触っていない。自動売買の動きとも違った。自動売買はもっと間がある。もっと、ためらいがある。画面の中の取引には、ためらいがなかった。数秒おきに、売って、買って、売って、買って、知らない通貨の組み合わせが並んでいく。

彼は起き上がった。

布団の上に座って、両手でスマホを持った。スクロールした。履歴は下へ下へ続いた。昨夜、自分が寝る前に確認した時には無かった行が、何十行も増えている。いや、何十では済まないかもしれない。数える手が止まった。

残高の欄を見た。

目を近づけた。

数字が、減っていた。昨日までの数字の、桁が一つ落ちていた。

「……なんだ、これ」

声が出た。寝ている妻が隣で身じろぎした。彼は声を落として、もう一度画面を見た。見ている間にも、履歴の一番上に新しい行が増えた。売り。また一つ、残高が削れた。

彼はアプリを閉じた。再起動すれば直る、と一瞬思った。バグだ、と思いたかった。開き直した。履歴は増え続けていた。閉じている間にも、向こう側では何かが動き続けている。

この仕組みを使い始めたのは、二年前だった。

会社の後輩に勧められた。「放っておいても増えますよ。設定だけやっておけば、あとは向こうのサーバーが勝手にやってくれます」。最初は半信半疑で、小さい金額から始めた。本当に、少しずつ増えた。減る月もあったが、長い目で見れば右肩上がりだった。彼はだんだん金額を増やした。退職金の一部も入れた。「銀行に置いておくよりは」という言葉を、自分に何度も言った。

その「放っておけば増える」仕組みが、今、放っておいたら減っていく仕組みに変わっていた。

いや、違う。仕組みが変わったのではない。誰かが、仕組みの中に入ってきたのだ。

止め方が分からなかった。

設定の画面を探した。自動売買の停止ボタンは押した。押したのに、履歴は止まらなかった。自分の付けた仕掛けは止まったのに、取引は続いている。つまり、動かしているのは自分の仕掛けじゃない。

その考えが腹に落ちた瞬間、手が冷えた。

会社のサポートに電話をした。早朝だった。機械の声が、営業時間と、混み合っている旨を繰り返した。彼は切って、もう一度かけた。同じ声だった。

三度目、今度は切らずに待った。機械の声が、順番にご案内します、と言った。彼はスマホを耳に当てたまま、もう一台のタブレットで取引の画面を開いた。電話の向こうでは音楽が流れていた。明るい、能天気な音楽だった。その音楽を聞きながら、彼は自分の金が削れていく画面を見続けた。

「このままお待ちいただくか」

機械の声が言った。

待つしかなかった。待っている間にも、行は増えた。売り。買い。売り。彼の知らない通貨。彼の知らないやり方。彼の金なのに、彼の知らないことばかりだった。

やっと人間の声が出た時、彼は最初の言葉に詰まった。

「あの、勝手に、取引が……」

自分でも、何を言っているのか分からなかった。オペレーターの女性は、落ち着いた声で、本人確認の質問を始めた。氏名。生年月日。登録の電話番号。彼は答えた。答えている間も、画面の行は増えた。

「止めてください。まず止めてください」

「お客様、まず状況を確認させていただきたく……」

女性は悪くなかった。マニュアルがそうなっているのだろう。でも、彼は受話器を握る手に力が入った。確認している間に、向こうは止まってくれない。その「間」の長さが、彼を追い詰めた。

履歴は増え続けた。

彼は台所に立って、水を飲んだ。コップを持つ手が、細かく震えた。水が少しこぼれた。拭く気にもならなかった。

スマホを台所のテーブルに置いた。画面は点いたままだった。目を離しても、向こうでは止まらない。目を離すことが怖くて、かといって見続けることも苦しくて、彼はテーブルの前に座り込んだ。

妻が起きてきた。

「どうしたの、こんな時間に」

彼は何と答えればいいか分からなかった。画面を向けた。妻は数秒見て、顔色を変えた。

「これ、あなたがやってるの?」

「俺じゃない」

「じゃあ、誰が」

答えられなかった。

やがて、履歴の増え方がゆっくりになった。止まったのではない。削るものが、もう無くなったのだ。

残高の欄には、0と表示されていた。

昨日までそこにあった数字を、彼は思い出そうとした。何年もかけて、少しずつ増やしてきた数字だった。ボーナスのたびに足した。減らさないように、危ない設定は避けてきた。夜中に起きて確認したこともある。その数字が、朝の数分の間に、目の前で、0になった。

彼は0という数字を、しばらく見つめていた。

試しに、買い注文を一つ入れてみた。残高不足で、はじかれた。当然だった。0なのだから。自分で自分のお金に触れない、ということが、画面の上で確定した瞬間だった。

妻が、彼の肩に手を置いた。

「ねえ、これ……」

「分からない」

「警察?」

「分からない」

「会社は、なんて」

「確認します、って。それだけ」

妻は何も言わなくなった。二人で、0の画面を見ていた。外では、新聞配達のバイクの音がした。郵便受けに、新聞の落ちる音がした。いつもの朝だった。いつもの朝の中で、自分たちだけの朝が、壊れていた。

メールが一通、届いていた。

会社からだった。深夜に自動で送られたらしいお知らせで、文面はいつもの事務的なものだった。彼は三度読み返した。「お客様の口座において、通常と異なる取引が確認されました」。通常と異なる。その言葉の軽さに、彼は一瞬、笑いそうになった。笑いにはならなかった。

通常と異なる、の正体を、彼は朝の数分で見たばかりだった。あれを「通常と異なる」と言うのなら、通常の言葉では足りないはずだった。でも、会社から来た言葉は、それだけだった。

彼はブックマークから会社のサイトを開いた。トップページはいつもどおりだった。キャンペーンの案内。口座開設の特典。何事もない顔のページだった。その「何事もない顔」が、彼には一番信じられなかった。

彼は立ち上がって、パソコンのある部屋へ行った。大画面で確認したかった。気のせいであってほしかった。起動を待つ数十秒が、長かった。

パソコンの画面でも、0だった。

椅子に座ったまま、彼は天井を見上げた。何年も働いて、ケチと言われるほど貯めて、老後のためにと回して、その先にあったのが、この朝だった。

スマホはもう震えなかった。

静かだった。台所の冷蔵庫の音だけがしていた。

彼はその静けさの中で、自分がまだ何も理解していないことに気づいた。何が起きたのか。誰がやったのか。金はどこへ行ったのか。戻るのか、戻らないのか。誰に聞けばいいのか。

何一つ、分からなかった。

ただ一つだけ分かった。

自分のお金が、自分じゃない誰かの手で、動かされていた。

その朝のことを、彼は後になっても、順番どおりに話すことができなかった。

画面の光。手の冷たさ。水のこぼれた台所。

話せるのは、いつもそこだけだった。

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