通知を見たのは、搭乗口のベンチの上だった。
二週間の休みだった。還暦を過ぎてから、俺は年に一度、こうして一人で海外へ出るようになった。今回はヨーロッパの小さい街を回った。美術館に入り、市場を歩き、知らない食堂で、知らない料理を食べた。誰とも約束のない日々だった。朝起きて、その日の気分で歩く方向を決める。それが、どれほど贅沢なことか。あの会社にいた頃の俺に言っても、信じなかっただろう。
妻は留守番だった。「たまには一人で、ゆっくりしておいで」。そう言って送り出してくれた。付いてこない理由は分かっている。俺がこの休みを必要としていることを、俺より先に分かっているのだ。
帰国便は夜の出発だった。空港の窓の外はもう暗くて、滑走路の灯が並んでいた。俺は窓際のベンチに座って、搭乗のアナウンスを待っていた。土産の袋が足元にあった。妻への土産と、孫への土産。平和な男の荷物だった。
スマホの画面の上に、ニュースの見出しが流れてきた。
大手ネット企業グループに不正アクセス。顧客の口座で不正取引か。
俺はその見出しを、最後まで読まなかった。
スマホを伏せた。
膝の上に、裏返したスマホを置いて、手のひらを乗せた。しばらく、そのまま座っていた。アナウンスが流れて、周りの人が立ち上がり始めた。俺も立った。列に並んだ。パスポートと搭乗券を出した。いつもと変わらない動きで、機内に入って、窓際の席に座った。
驚かなかったことには、自分でも気づいていた。
気づいていて、考えないようにしていた、という方が近いかもしれない。ベルトを締める。荷物を足元に押し込む。隣の席は空席だった。誰もいない。それが、その時は何よりありがたかった。
飛行機が動き出した。
窓の外の灯が流れ始めて、機体が浮いた。街の明かりが小さくなっていく。耳の奥が詰まる感じがして、俺は唾を飲んだ。
スマホは機内モードにした。もう何も入ってこない。入ってこないはずなのに、伏せた画面の向こうでニュースが増えていく気配だけが、頭の隅に残った。
見出しの文字を思い出していた。
顧客の口座。不正取引。
それは「あの会社」の話だった。間違いない、と体が先に分かっていた。見出しに社名は無かった。無くても分かった。頭で考えたのではない。二十年以上、あの会社の空気を吸ってきた体の方が先に反応していた。
俺がその会社を辞めて、二年になる。
辞めた理由を、人に聞かれることがある。独立したかったからだ、と答えている。嘘ではない。だが、それだけでもない。それだけではない部分を、俺はまだ、誰にも話したことがない。妻にさえも。
機内食が出た。
客室乗務員が、肉と魚のどちらにするか聞いた。俺は魚と答えた。声が、自分でも驚くほど普通だった。トレーが置かれて、蓋を開けると、湯気と一緒に、温かい匂いがした。
俺はほとんど手をつけなかった。隣が空いているのをいいことに、トレーを端に寄せて、窓の外を見ていた。雲の上に出ていて、月明かりが雲の表面を白く照らしていた。
食欲がないわけじゃなかった。腹は減っていた。でも、箸を持って、普通に食事をする自分と、頭の隅で膨らんでいくニュースの気配とが、どうしても同じ体の中に収まらなかった。
通路側の席の老夫婦は、二人で機内食を分け合って食べていた。映画を見て、時々笑っていた。平和な光景だった。その平和の真ん中に、俺一人が違う時間の中にいる気がした。
あの会社にいた頃、こういう「違う時間」は日常だった。世間が正月を祝っている時も、盆で帰省している時も、会社の数字は動いていて、俺の頭はそっちにあった。家族と食卓を囲みながら、頭の中で売上を確認していた。妻には何度も言われた。「あんた、体はここにいるけど、頭は会社だね」。
その頭が、今はもう会社にない。
ないはずなのに、伏せたスマホ一枚で、あの頃の時間が戻ってくる。
ふと、笑いそうになった。
休みを取って、一人で海外へ来た。自分の会社の予定は自分で決められる。誰の許可も要らない。二週間、誰にも連絡を取らなかった。それが今の俺の生活だった。
あの会社にいた頃、休みらしい休みは無かった。
正月も、盆も、スマホは鳴った。鳴らなかった日は、鳴らないことが気になって、自分から画面を開いていた。そういう生活を、二十年以上続けた。辞めてからも半年は、朝、目が覚めて最初に会社の数字を確認しようとして、手が空を掴んだ。
今はもう、掴まない。
掴まなくなった手で、伏せたスマホに触れた。
ニュースは増えているはずだった。着いたら、山のように通知が来るのだろう。会見があるかもしれない。彼の顔が画面に出るのだろう。彼は何と言うのだろう。何を言わないのだろう。
そういうことを考える自分を、俺は少し離れた所から見ていた。
彼は今頃、眠っていないはずだった。
昔からそうだった。何か起きた時、彼は絶対に眠らなかった。眠らないで、考え続けて、朝にはもう次の手を打っていた。あの会社の誰もが、その背中を見て育った。俺もそうだった。
現役の頃、深夜に彼から電話がかかってくることがあった。用件はたいてい短かった。数字の確認。明日の段取り。それだけ言って、切れる前に彼は必ずこう言った。
「悪かったな、こんな時間に」
謝るくせに、次の夜もかかってきた。俺はそれが嫌いじゃなかった。むしろ、あの電話が来ることが、俺がまだ「側にいる人間」だという証拠のようで、どこか安心していた。
辞めてから、その電話は一度も鳴っていない。
鳴らない電話のことを、俺は今夜、何度も思い出している。伏せたスマホ。機内モードの画面。俺はこの二年、「もう関係ない側」の人間として生きてきたつもりだった。そのつもりが、今夜は薄い。
窓の外は、ずっと夜だった。
飛行時間が長い便だった。国をいくつも越えて、朝の国へ帰っていく。機内は暗くなって、ほとんどの人が眠っていた。俺は眠れなかった。
眠れない理由を、ニュースのせいにするのは簡単だった。
でも、本当のところは違った。
俺は、あの会社のことを考え始めると、いつも同じ所から考え始めてしまう。どんなに最近のことを思い出そうとしても、気づくと、子供の頃の場面に立っている。
東中野の、彼の家の食卓。
長野の、彼の祖母の家の縁側。
あそこからしか、始まらないのだ。俺と彼の話は。
客室乗務員が静かに通路を通った。俺は小さく手を挙げて、水をもらった。冷えた水を飲むと、頭の芯が少し冷えた。
夜中の二時を過ぎた頃、機内は完全に静まり返った。
俺は一度、トイレに立った。通路を歩きながら、眠っている人たちを見た。毛布をかぶって眠る人。モニターをつけたまま眠ってしまった人。赤ん坊を抱いて、自分は椅子に浅く座って目を閉じている母親。この飛行機の中の誰も、今、地上で何が起きているか知らない。知らないまま、朝の国へ運ばれていく。
席に戻って、俺はリクライニングを少し倒した。
目を閉じると、見出しの文字が浮かんだ。消すと、彼の若い頃の顔が浮かんだ。並んで歩いた商店街。長野の川。職員室の前で立ち尽くす後ろ姿。
人は、歳を取ると昔のことを思い出すという。俺はそうじゃないと思っていた。俺が思い出すのは、いつも決まって「あの頃の彼」だった。思い出すたびに確認しているのだと思う。俺と彼は、どこでどうなったのか。その分岐がどこにあったのかを。
今夜のニュースは、その確認を急に重くした。
一度だけ、機内Wi-Fiに繋ごうかと思った。
指が設定画面の上で止まった。繋げば、ニュースの続きが読める。彼の会見があるのか、会社が何を発表したのか、今すぐ分かる。分かったところで、俺にできることは何もない。俺はもう、あの会社の人間ではない。
それでも指は止まったままだった。
結局、繋がなかった。理由は立派なものじゃない。知るのが怖かったのだと思う。知ってしまったら、俺の中の彼の顔が、また一つ変わってしまう。その変化を、この飛行機の中で受け止める自信がなかった。
代わりに、俺はずっと考えていた。彼と最後に飲んだのは、いつだったか。思い出せなかった。会社にいた頃は、月に一度は二人で飲んだ。辞めてからは、一度もない。「たまには飲みに来いよ」。あの一言を、二人とも守らなかった。
守らなかった理由も、たぶん同じだった。会えば、あの頃の話になる。あの頃の話の中には、触れたくない場所がいくつもある。彼は会社の全部を知る側で、俺は辞めた側だ。立場が違えば、同じ記憶でも色が変わる。それを確かめ合うのが、二人とも面倒だったのだ。
いや、面倒なのではない。怖かったのだ。俺も、彼も。
着陸まで、あと六時間ほどあった。
窓に、自分の顔が薄く映っていた。
六十を過ぎた男の顔だった。当たり前だ。彼も同じ年だ。ニュースの画面の中で謝る彼は、白髪が増えているのだろうか。最後に会ったのは、辞める日の挨拶の時だった。
あの日、俺の机はもう空だった。私物を段ボール一つに詰めて、社員証を返して、最後に彼の部屋に行った。彼は窓際の席にいて、俺が入ると立ち上がった。
「そうか。行くか」
「お世話になりました」
型どおりの挨拶をした。彼が笑って、「たまには飲みに来いよ」と言った。俺は「ええ」と答えた。行っていない。
握手もしなかった。昔からの癖で、二人ともそういうことはしない。ただ、部屋を出る時、彼は俺の背中に言った。
「体に気をつけろよ」
その声が、今も耳に残っている。あの声で、彼はどれだけの人間を送り出してきたのだろう。そして今、彼はどれだけの人間の前に、頭を下げているのだろう。
水を飲み干して、カップをトレーに戻した。
目を閉じた。
最初に浮かんだのは、やはり食卓だった。
あの家の、夕方の匂い。彼の父親の声。箸を持ったまま、固まっている俺。
始まりは、いつもあそこだった。